人の心はわからない。
「わからない」という地点からスタートするからこそ、
目の前のその人を真剣に見ようとする。聴こうとする。感じ取ろうとする。
それがない「相手の本音がわかる」という感覚は、相手を見ようとしていない。
正確にいうと、
「相手と対等に関わろうとしていない」
頭の中で、自分を相手より上位に置き、自分の脳内にある
「こういうタイプの人はこう考えるだろう」
「育った環境から考えてこういうタイプに違いない」
という過去のデータや想像を相手に貼り付けて、
「自分は人の心理がわかる特別な人間である」
という全能感に浸る。
「特別な自分」を彩る手段として、人を見ている。
隠れたナルシシズムだ。
胸にぽっかり穴が空いたような虚しさ
何をしても満たされないさびしさ
欲求不満な現状
思い通りにいかないこと、人に対する抑圧した思い
満たされない感覚から目を逸らす手段の一つとして、
「人の本音を見抜ける自分」という特別な自分像に浸っていないか?
その特別な自分像に浸ることで、
見ないようにしているものがあるとしたら、なんだろう?
本当に感じたくなくて、心の奥底に封印しているものがあるとしたら、なんだろう?

人の心はわからない。
わからないからこそ、自分の想像や思い込み、願望や偏見なんかも抱えながら、
相手の世界に興味を持って、「わかりたい」と願いながら、自分から関わりにいく。
追伸
じつはこの文章は、過去の自分に向けて書いた手紙です。
「人の心がわかる特別な人間」になろうとしていた、かつての自分へ。
というか、いまでも油断するとその全能感の罠に引っかかりそうになる自分へ。
心理セラピストとして人と関わるいまだからこそ、
改めてこの「わからない」という原点に、いつでも戻れる人でありたいと思っています。

